田川伸一郎のブログ

熊本地震から3ヶ月

震度7を観測した熊本地震から今日で3ヶ月が経ちます。

先日、天草にお伺いした際、熊本空港を経由しましたが、空港内もまだ被害を受けたまま修復が終わらず、立ち入り禁止の箇所もありました。

被災地では仮設住宅への入居が十分に進まず、熊本県内では15万7000棟余りの住宅で地震による被害が確認され、全壊と半壊は合わせて3万4200棟余りに上っています。
16の市町村が仮設住宅の建設を計画していて、13日までに3631戸が着工していますが、完成したのは、およそ4割にとどまり、住まいの確保も十分に進んでいません。

結果、今も4700人近い方々が避難生活を続けていらっしゃいます。

また、仮設住宅に入居出来た方も、孤独や不慣れな生活でストレスが増し、「医者に、ストレスをためないようにと言われたけど、この生活でどうやってストレスをためるなと言えるんだ。」と、苦しまれる方々も...

自宅に住めなくなった多くの方々が自宅の車庫やテントなど、いわゆる「軒先」で避難生活を続けています。
避難生活が長期化するなか、エコノミークラス症候群だけでなく、暑さ対策や梅雨の時期の安全確保なども課題になっています。
これからは、本格的な台風の心配もされる中、安心して生活できる住居の確保をどのようにすればよいのか...

仕事を失ったり休んだりしている人や、企業側から寄せられた相談は、今月3日までに2万1400件余りに上っていて、地震から3ヶ月たった今も依然、生活の再建が大きな課題となっています。


遠く離れた千葉から、何が出来るのだろうかと悩みます。

募金などには当然、協力させていただいていますが、テレビで被災に苦しむ方々の姿、生の声に触れるにつけ、行政の働きに願いを強める他は無い気もします。

1日も早く、安心して生活できる環境を...祈ります。

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熊本への祈り

昨夜、熊本県を中心とする大きな地震が発生しました。

携帯の「緊急速報」が何度も鳴り、関東エリアかと思ったら、熊本で震度7と...

時間と共に、被害の大きさも明らかになって来ました。
亡くなられた方、けがをされた方、ライフライン、交通網の寸断...

熊本や天草には、知っている先生方がいらっしゃいます。

すぐに連絡を取り、知り合いの方々の無事は確認できましたが、まだ余震もあるので、いつでも避難できるように準備して生活していらっしゃると。

せめてもの救いは、津波がなかったこととおっしゃっていました。
特に天草は、海面からの高さが低い場所が多く、津波が来るのではと恐怖だったと。

避難生活を送られている方は、2日目の夜となりました。
配給のごはん(本当にごはんをラップでくるんだものです。)を、「ありがたい、ありがたい」と口にされるお年寄りを見て、胸が痛みました。

どうかもう大きな余震が来ませんように。
被害が拡大しませんように。
避難されている方々がお身体をこわされませんように。

ただただ祈ります。

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3月11日 祈りの日

5年目のこの日を迎えました。

祈っても祈っても、犠牲になられた方々の鎮魂には及ばぬ思いです。

たくさんの事実や現実、そして、思いが伝えられています。

・・・今もなお苦しみ続ける方々の思いに胸が苦しくなります。

また、震災を乗り越えてこその生き方や夢を見つけ出した若者たちの勇気と希望には、元気をもらいながら、エールを送ります。


国からは復興に向けての様々な計画も述べられています。
国の「大きな計画」が、見に見える復興だけではなく、被災された方々お一人お一人の心の傷にまで浸透していくようなものであってほしい...

しかし、それは国に任せられることではないのかもしれません。

・・・必要なのは「愛の力」


自分には、何が出来るのだろう。
自分は、何をすべきなのだろう。
何をもって「愛」を伝えていけるのだろう。

・・・そんな思いを、日々持ち続けていくこと。
年を重ねるごとに、思いをさらに深くしていくこと。

そして、自分が出来ないことに、命がけで取り組んでくださっている方々に感謝し、敬服すること。

苦しみを乗り越えて、懸命に生きる方々を、心の限り思うこと。


多くの失われた命に・・・合掌

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がれきに母残し4年、19歳の誓い

東日本大震災追悼式、宮城県遺族代表、菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻市出身=のことばです。(原文のまま)

私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。

小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。

あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。

しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。
その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると、釘や木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。
右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。
母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。
「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。

そんな体験から今日で4年。

あっという間で、そしてとても長い4年間でした。
家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。
全てが、今もまだ夢の様です。

しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。
震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。
「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。
日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。
そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。

震災で失った物はもう戻ってくることはありません。
被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。
しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第で、いくらにでも増やしていける物だと私は思います。
前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。

最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。
また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。

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3月11日

あたりまえのように朝が来る

あたりまえのように呼吸する

あたりまえのように歩き、話し、歌い、笑う

あたりまえのように・・・


そんなあたりまえのはずだった毎日が、無残に奪われたあの日

・・・

もしも、私が、あの日、そこに住む者だったら

あんなにもたくましく前を向いて歩けただろうか
悲しみや苦しみから這い上がれただろうか

テレビで被災者の方々が語る
「震災で失ったものは多いけれど、震災があったから得られたものも多いのです」
「震災で失ったたくさんのものと同じ位、これからの人生でたくさんのものを得られるように前を向いて生きていきたいと思います」

...私だったら、こんなことを話せただろうか


4年が過ぎ、私の思いは少し変わってきた

支援とか、理解とか、祈りとか
そういうことではなく

私は、自分の弱さや小ささや無力さや情けなさを、懸命に生きようとする被災者の方々から、ただただ思い知らさせる、教えられる...


いつか私の身にもやってくるであろう「その日」...
私が「被災者」になるであろうその日...

「震災」という災害ではなく、「病い」という災害かもしれない


何もできず、何もしようとせず、ただ茫然と、うずくまってうめいている自分が見える

歩き出す道を探そうともせず
歩き出す意思、いや、生きる意思さえ見失っている自分が見える

闇の中で、ひとり静かに、自ら命を絶とうとしている自分すら見える


こんな自分が、あたりまえの日々を送らせていただいている

いや、あたりまえの日々だから、何とか生き長らえている


私は弱くて、ダメな人間だ

だから、私が生きられる「あたりまえの日々」を、あたりまえ以上に生きたい

いつか来る「その日」に、じたばたせず、全てを受け入れて、静かに目を閉じられるように...


黙祷の中で、多くの失われた命の最期を思い、涙がとめどもなく溢れた

たくましく生きようとする「残された方々」の姿に、何度も涙が溢れた


支援とか、理解とか、祈りとか
そういうことではなく

私は、被災者の方々から、ただただ思い知らされている、教えられている


だから、今ある「命」に感謝し

今ある「あたりまえの日々」に感謝し

生きる

心をこめて...


                  水を運ぶ少年[1]

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