田川伸一郎のブログ

沖縄慰霊の日

沖縄は、今日、「慰霊の日」を迎えます。

沖縄戦...

沖縄県では、太平洋戦争末期に県民を巻き込んだ地上戦が行われました。

開戦以来、進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋上の数々の島嶼にあった基地も奪われることとなりました。
このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とし、昭和19年3月に南西諸島に沖縄防衛のため、第32軍を創設しました。
一方米軍は、本土攻撃の拠点を硫黄島・沖縄と定め、昭和19年10月には沖縄攻略を正式に決め(アイスバーグ作戦)、同年10月10日、まず沖縄本島に大規模な空襲を行ないました。

昭和20年3月17日には硫黄島にあった日本軍守備隊が玉砕し、これにより米軍は、太平洋地区にあった全軍の戦力を沖縄攻略に向けて結集することにしました。3月26日慶良間列島に上陸した米軍は、4月1日に1500隻近い艦船と延べ約54万人の兵員をもって沖縄本島に上陸を開始しました。ここから約 3~5ヶ月にわたる沖縄戦が始まりました。

この沖縄での戦闘は、6月23日未明に第32軍の牛島司令官と長参謀長が自決したことにより、組織的戦闘は同日に終結したとされていますが、その後も沖縄本島以外の各島や本島内でも局地的には引き続き戦闘が行なわれており、南西諸島守備軍代表が降伏文書に調印したのは、9月7日のことです。
この約3~5ヶ月の間の戦闘で亡くなった日本兵及び一般住民の方々は、一般住民約10万人を含め約20数万人といわれています。


今年は、沖縄戦から70年の節目の「慰霊の日」です。
激戦地だった糸満市摩文仁の平和祈念公園では午前11時50分から、県と県議会主催の「戦後70年沖縄全戦没者追悼式」が開かれ、戦没者のみ霊を慰めるとともに、世界の恒久平和を希求します。
県内各地で慰霊祭が開かれ、沖縄は慰霊と鎮魂の祈りに包まれます。

国籍や軍民の違いを問わず、沖縄戦の犠牲となった人々の名を刻銘した「平和の礎」は95年の慰霊の日の除幕から20年となりました。
関係者の高齢化が進み、確認作業が困難となる中、全戦没者の刻銘に向けた努力が続いています。
 


昨年の1月に沖縄にお伺いした時の記事から... 


『平和記念公園』

沖縄戦終結の地、糸満市摩文仁に整備された戦跡公園。
国立沖縄戦没者墓苑をはじめ、各県の慰霊塔・碑、沖縄県平和記念資料館、平和の礎(いしじ)、沖縄平和祈念堂などが集結。
戦没者を追悼すると共に平和を発信する公園として昭和47年に開園した。


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『平和の丘』のモニュメント。この前で、6月23日に「慰霊の日」の戦没者追悼式が行われます。


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『平和の火』 
「慰霊の日」の6月23日の日の出は、太陽とこの『平和の火』と『平和の丘』(奥に見えます)が、
この道の上に一直線に並ぶそうです。
そのように位置決めして作られたそうです。



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『平和の礎(いしじ)』

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               沖縄戦での戦没者の名前が刻まれています。
               今も、聞き取りが続けられ、追加されているそうです。




『ひめゆりの塔』(ひめゆり平和祈念資料館)

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米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人は、那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。
3月26日、米軍は慶良間列島に進攻、4月1日には沖縄本島中部西海岸に上陸。
米軍の南下に従い、日本軍の死傷者が激増し、学徒たちは負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、仮眠を取る時間もなくなっていきます。
糞尿、死体の悪臭の中の作業でした。最も手をかけなければならない「重傷患者」は、「足手まといになるから」と、青酸カリを入れたミルクを飲まされ、殺害されていきました。その現実をそばで見させられた学徒たちでした。
激しい砲爆撃の続く中で6月18日、学徒たちは突然の「解散命令」を受けます。つまり、「引率放棄」を受けて「あとは、自分で何とか生き延びていきなさい」と、戦場に放り出されます。
米軍が包囲する戦場を逃げようとして、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そして、米軍に殺されるくらいならと自ら手榴弾で命を失っていきました。
沖縄戦は、6月23日、日本軍司令官・牛島満の自決により終了したと考えられています。
沖縄戦では、「ひめゆり」以外にも多くの学徒隊が動員され、1998人の学徒が戦死しました。また、12万人余りにのぼる沖縄住人の犠牲をうみました。

「ひめゆり」とは、花の名前ではありません。
それぞれの学校に交友会誌があり、一高女は『おとひめ』、師範は『白百合』と名づけられていました。
両校が併設されることになり、この交友会誌もそれぞれの名前を一部を合わせて『姫百合』となりました。
戦後、ひらがなで表示されるようになりました。



この平和祈念館は、戦争を知らない世代が増えるにつけ、戦争の恐怖を伝え続けること、平和であることの大切さを訴え続けることが、亡くなった学徒と教師への鎮魂になるという考えから設立されました。

生き延びた「ひめゆり学徒」の証言ビデオ放映、悲惨な現場の様子を隠すことなく解説写真展示してあります。

思わず無言になり、涙がこぼれました。
話は何度も聞いていましたが、この地に訪れて、やはり過去の過ちへの怒りがこみ上げてきました。



沖縄の小学校で、子どもたちが歌って聴かせてくれた歌...『月桃(げっとう)の花』

心に焼き付いて離れません。
歌詞も、メロディーも、子どもたちの歌声の美しさも、ただひたすらに歌う姿も...

『月桃の花』    作詞・作曲/海勢頭 豊

1. 月桃ゆれて 花咲けば
   夏のたよりは 南風
   緑は萌える うりずんの
   ふるさとの夏

2.月桃白い花のかんざし
   村のはずれの石垣に
   手に取る人も 今はいない
   ふるさとの夏

3.摩文仁の丘の 祈りの歌に
   夏の真昼は 青い空
   誓いの言葉 今も新たな
   ふるさとの夏

4.海はまぶしい キャンの岬に
   寄せくる波は 変わらねど
   変わるはてない 浮世の情け
   ふるさとの夏

5.六月二十三日待たず
   月桃の花 散りました
   長い長い 煙たなびく
   ふるさとの夏

6.香れよ香れ 月桃の花
  永久(とわ)に咲く身の 花心
  変わらぬ命 変わらぬ心
  ふるさとの夏


この曲は、太平洋戦争での悲惨な沖縄戦を描いた映画『GAMA(ガマ) 月桃の花』の挿入歌です。
海勢頭(うみせど)豊さんは、沖縄の作曲家です。

ガマは鍾乳洞の名前です。
1944年10月10日、那覇市の大空襲から、翌年6月23日の沖縄守備軍司令部、牛島満司令官,長勇参謀長が自決し,日本軍の組織的戦闘が終了するまでの8ヶ月以上にわたる沖縄戦は、本土決戦をなんとしても阻止したい軍部の行った国内唯一の地上戦でした。
九州へ疎開する学童を乗せた対馬丸がアメリカの潜水艦の攻撃で1500人の子どもの命を奪った(44年8月)など、とにかく悲惨さだけが残っている沖縄戦です。
ガマが避難所として最適なため、軍民が一体となった避難生活をしてました。そこに火炎放射器で一気に焼き殺すと云うことをやってのけたのがアメリカ軍でした。

歌詞1番のなかの「うりずん」はツユのじめじめした様子をいう沖縄の言葉です。


沖縄では、6月23日の沖縄戦集結の日に向けて、多くの学校でこの歌を歌うそうです。
沖縄の方々は誰もが知っているこの歌...恥ずかしながら、私は知りませんでした。

5番の歌詞「六月二十三日待たず、月桃の花散りました」が、心に刺さり、涙が溢れて来ました。
けなげな子どもたちの顔と歌声が、哀しいほどに美しかったです。

『月桃の花』...ぜひお聴きください。

子どもの歌ではありませんが...

『月桃の花』
http://www.youtube.com/watch?v=x-9BJLs3Sv0

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沖縄で写した「月桃の花」です。



国会では集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案の審議が進められています。

70年前の教訓から、一切の武力放棄を宣言した日本の姿が転換しようとする中、沖縄戦の犠牲者に寄り添いつつ、「反戦と平和」を改めて誓いたい今日の日です。


沖縄戦で命を落とされた多くの方々に...合掌。


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               鎮魂の光...昨夜の平和記念公園

  
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| | 2015-06-23(Tue)21:07 [編集]


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| | 2015-06-23(Tue)23:30 [編集]