田川伸一郎のブログ

「母の日」に寄せて

83歳になる私の母は足が不自由だ。ひとりでは家から一歩も出られない。
昔から足が不自由だったわけではない。数年前から、急にこうなってしまった。

物心ついた頃から、私たち一家は東京・目黒にあるさほど広くもないマンションで6人暮らしをしていた。父・母・父方の祖母・叔母(父の妹)・7つ違いの姉・そして私。「ひしめき合って」という言葉がふさわしい家族、そして家だった。

大学2年の頃、私は「この家族から自立したい」という思いに駆られ、いや、色々あり過ぎるこの家族の息苦しさに耐えられなくなり、家を出た。「仕送りは月4万円しかせんよ。」という親からの条件も呑んだ。家を出たい一心だった。「何とかなる。何とかする。」...千葉の大学近くに1ヶ月1万1000円・4畳半一間の風呂もないアパートを借りた。十分満足だった。そのアパートに住み続けながら大学を卒業し、私は小学校教員になった。夢だったバンド指導も始めた。このアパートの家賃は、自腹を切ってでも子どもたちと吹奏楽をしたかった私には好都合だった。

その後、祖母が亡くなり、時期を同じくして姉が嫁いで家を出た。ひしめき合っていた目黒の家族は3人になった。

私が3校目の学校、大柏小学校に在職していた時、父がガンで亡くなった。 目黒の家族は2人になった。母と叔母は家族のようで家族でない微妙な緊張感を持ちながらも、共に「老い」という時を迎える中、支え合いながら生活していた。

しかし、私が5校目の学校、教員として勤めた最後の学校の真間小学校に赴任した年の秋、その叔母もガンで亡くなった。
6人がひしめき合って暮らしていた目黒の家には、母ひとりだけが残された。この頃、母の足はすでに不自由になっていた。足の自由がきいていた叔母を失い、母は途端に元気を無くした。
姉は、目黒からは遠い千葉県我孫子市に住んでいた。姉よりはずっと目黒に近い市川市に住んでいた私は、勤務後、車を走らせて母の様子を見に行く生活を始めた。買い物もし、話し相手にもなり、何とかひとり暮らしの母を支えようと努力した。私自身も新しい職場環境と日々の過労が重なり、体と心の調子を今までになく崩してしまった。それでも、毎日、必死の思いで出勤し、吹奏楽の朝練習をし、週に約24コマ受け持っていた授業をこなし、母の世話にも走り続けた。姉とは電話で連絡を取り合い、自分の体と心の苦しみも聞いてもらい、母への対応もアドバイスしてもらった。もちろん姉もしばしば母の元へと足を運んでくれた。

私が目黒の家を出て、姉が嫁いでからというもの、私と家族は、ほとんど疎遠な状態になっていった。色々あり過ぎた家庭から逃げ出すように家を出た私は、自分の気持ちを心の奥深い所に押し込めて生活していた。そんな私が、「母を守りたい」という一心で自分の体と心の健康を二の次にした生活をし始めたのだから不思議なものだ。
やっと「家族の温もり」を取り戻した時間だったのかもしれない。

ある夜、私は、母がソファで天井を見上げてぐったりしている姿に遭遇した。聞くと朝から何も飲まず食わずだったという。私は、自力で動きが取れない母を何とか車に乗せ、五反田にある夜間診療の病院に連れて行った。「過度の貧血状態」...母は緊急入院となった。家の中を移動する体力も気力も無くなった母は、私がいない時は食べ物があってもろくに食事もしていなかったらしい。
私は勤務後、五反田の病院に駆けつける生活に変わった。土日や私が都合のつかない日には姉も我孫子から来てくれた。

約2週間後、母は体調を取り戻し、退院を申し渡された。しかし、あの目黒に住まわせるのは無理。また、同じことになってしまう。私と姉は話し合い、姉の住む我孫子市の有料介護施設に、ともかく一度入ってもらうことにした。たまたま空きがあったその介護施設は新しくて明るく、スタッフの方々も本当に優しく、母にもとりあえず気に入ってもらえた。
しかし、日が経つにつれて母は「ここを出してほしい。」と訴え始めた。足が不自由なだけで、認知もなく内臓も元気な母は、介護施設で暮らす他の様々な方々の様子、いつも監視(いつも細やかなお世話)されているという圧迫に耐えられないという。時には、「こんな姥捨て山に捨てて!!」と、姉と私をなじった。窓から飛び降りて死にたいとも言った。スタッフの方々にこれだけ親切にしていただいているのにと思ったが、母には受け入れられない様子だった。

私と姉はまた相談し、姉の提案で「ひとり暮らしをしたい」という、母の人生最後の願いを叶えてやることにした。姉の家から歩ける場所にあるマンションの一室を借りて、住まわせてあげることにしたのだ。母は、疎遠だった私よりも心と話が通じる姉がすぐそばに住んでいるという安心感、そして、我孫子の自然豊かな環境が気に入って、「目黒に帰りたい」とは言わなかった。姉は幼児教育に携わっていたが、小学校教員で吹奏楽指導にも明け暮れていた私よりはずっと時間もあり、毎日母の世話をし、ドライブやショッピングに連れ出し、母は足の不自由はあっても驚くほど元気な心を取り戻してくれた。私も、安心して勤務に専念し、週に1~2度我孫子の母のところに顔を出してあげる生活に落ち着いた。

真間小学校2年目の秋、吹奏楽部の子どもたちと「東京ディズニーシー」のステージに立たせていただいた日に、姉は母をディズニーシーまで連れて来てくれた。まだひとりで自由に歩けた頃、母は大柏小学校や新浜小学校の演奏会を聴きに市川市文化会館までこっそり足を運んでくれていた。今回は、姉が車椅子を押して私と子どもたちがつくりあげる「ディズニーシー」でのコンサートに誘ってくれた。演奏後、園内で母と姉と私は肩を寄せ合って写真を撮った。
「ミッキーがジャズを演奏するショーを見たんよ。車椅子だからって先に入れてくれて。楽しかったよぉ。やっぱりミッキーはかわいいねぇ。」 生まれて初めてディズニーリゾートに来た母は、子どものようにはしゃいだ。
「子どもたちの演奏は?」「まあ、良かったけど、大柏や新浜には追いつかんな。」 母もすっかり評論家になってしまった。

この頃から、私は、母の人生の最後に寄り添いたいと真剣に考え始めていた。色々あり過ぎて家を出た辛かった思いも、もうすべて心の中から捨てることができた。時間はかかったが、この思いは確かなものだった。

私は、住み慣れた市川市を離れて姉と母が住む我孫子市に転居する決心をし、そして教員を退職する準備を始めた。

母のことは別にしても、生涯、小学校教員として歩み続けることに釈然としない「何か」を感じていた私は、「神様が与えてくださった良いタイミングなのかもしれない」とも思った。
母は「もったいない。でも、あんたの人生やから好きにしなさい。」と。
姉は私の思いに大賛成してくれた。「あなたはもう十分頑張ったんだからいいよ。これからは、限られた自分の学校の子どもだけを育てるんじゃなくて、今頑張っているたくさんの先生たちや子どもたちを助けてあげられたら、あなたが生きて来たこれまでの道は、もっともっと広がると思うわ。そして、ふたりで半分ずつお母さんを支えながら、少しだけゆっくり歩いて行きましょうよ。心通った家族として、今までの分まで楽しく暮らしましょう。」
...ずっと意思の疎通もしていなかった姉が、今、一番よく私の思いをわかってくれていた。私は涙して感謝した。

真間小学校3年目、自分としては「今年で終わり」と決めた教員生活最後の1年が始まった昨年春のちょうど今頃、その姉がガンの宣告を受けた。進行したスキルス胃ガンだった。姉は、その宣告を淡々と受け止めた。まるで他人事のように。
姉は、前向きに病と闘いながらも、一方では自ら旅立ちの準備をし、「私が死んだらこれを送って」と、友達やお世話になった方々への感謝とお別れの手紙を60通以上も書いた。
葬式などせず、家族だけでなごやかに語り合い、BGMには大好きだった大柏小と新浜小の吹奏楽の演奏をかけてほしい。特に、大柏小の「エル・カミーノ・レアル」だけは絶対にかけてと語った。あまりの気丈さに、「わかったよ。かけてあげるから。」としか言えなかった。

今年の2月22日の明け方、姉は静かに息を引き取った。
私は、姉の願いどおり、大柏小の「エル・カミーノ・レアル」をスタートに、大柏小と新浜小の演奏を次々に聴かせてあげた。

3月、私は退職し、予定どおり我孫子市湖北台の母のそばに転居した。私よりもずっと心も話も通じる姉を失った悲しみと寂しさを、母は隠せない。私には代われない思いがあるのもわかる。
でも、私は私なりの「愛」をもって、母に寄り添っている。その思いだけは母に通じていると信じている。

夢だった教員になり、夢だった吹奏楽指導に没頭し、気づいたら音楽と結婚してしまっていた私。
最近、母に「孫の顔も見せられなくてごめんね。でも、僕はこれまでの人生には後悔していないし、これからの生き方にも夢を持っている。」と、以前ではあり得なかったほど素直に話せる自分がいる。

「あんたは、1000人近い子どもをあんなに立派に育てた。たくさんの人の心に勇気を与える音楽を残した。何百人もの子どもたちを日本一にした。今どきは、自分の子ども一人、まともに育てられん親もたくさんおる。あんたが立派に育てた子どもたちは、みんなお母さんの孫や。」

こんなことを語り合い、こんなことを言ってもらえる日が来るとは思ってもいなかった。

色々あり過ぎたあの辛かった日々の中でも、確実に親子の「愛」は育っていたのだと思う。

「あなたが湖北に引っ越して来たら、30年間ご苦労様の会と、引っ越し祝いの会と、これからもよろしくの会をまとめて盛大にやりましょうね!あなたの新居でやりましょう!私が腕によりをかけて、いっぱいご馳走してあげるからね!」...姉のその言葉に心がキラキラし、その会を楽しみに、私は早々と4人掛けのダイニングテーブルを買っておいた。母と姉と私と、優しい義兄の4人が座って乾杯をする日を夢見て。
しかし、その日は来なかった。

今日の「母の日」は特別な思いで迎えた。
最近、母は腰の痛みがひどくなってきている。今朝も、辛そうな顔で布団から出ようとしていた。

「大丈夫?昼はここに用意してあるからね。でも心配だな。」...うろうろしている私に、「あんた、今日はどっかの高校に行くとか言ってたやろ。あんたを待っている先生と生徒がおるんやろ!お母さんは大丈夫やから、早く行きなさい!」と、母は私を叱った。
「ごめんね。行って来るね。早く帰って来るから。」「早く帰らんでええ。先生の話をたくさん聞いてやらんといけん。それがあんたの仕事やろ?そのためにお母さんがもったいないと言うのに先生を辞めたんやろ?!」
「わかった。何かあったら、すぐ電話するんだよ。」「ああ、わかった。早く行きなさい。」

車を走らせながら母への感謝と尊敬がどんどんふくらみ、「笑顔で今日を過ごすこと」が一番の「母の日の贈り物」だと思った。
伺った高校の先生と生徒さんたちと、私はいつも以上の笑顔で、生き生きとした1日を過ごした。

年に1回の「母の日」を、母に叱られ、母に励まされて過ごした、相変わらず出来の悪い息子だった。

来年の「母の日」を思う時、また「早く行きなさい!あんたを待っている先生と生徒がおるんやろ!」と、叱る母の姿があってくれたらと願う。

相変わらず出来の悪い息子でいいから...
いつまでも出来の悪い息子でいいから...

シー
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