田川伸一郎のブログ

終戦記念日

「過ち」に、まっすぐ目を向けること。
その「過ち」を「正」と思い込まされ、命奪われた人々、傷ついた人々の悔やみを知り、憤りを感じること。

平和を訴える一方で、日本はどこか少しずつ変わって来ているようにも思う。

「戦争への足音」など、あってはならない。 認めてはならない。

「終戦記念日」とは、そういう決意を新たにする日だと思う。


毎日新聞 デジタルより

◇戦車に「肉弾特攻」、下っ端兵士は骨も残らず

満州(現中国東北部)の静かな平原。爆音とともに、戦車から上がった黒煙。
大阪市北区の渡部(わたなべ)清数さん(89)は69年前の光景を今でも鮮明に覚えている。
終戦直前、満州に侵攻した旧ソ連軍の戦車に、日本軍は爆薬を詰めた木箱を抱えて突撃した。
「自分の足で走って戦車に体当たりする。かっこいいなんてものじゃないです。そんな悲惨な特攻があったことを忘れないでほしい」
69回目の終戦記念日。渡部さんは次世代に託すために記憶の糸をたどりながら語った。

現在の韓国・釜山(プサン)で生まれ、高等小学校を卒業して関東軍測量部に志願した。
当時14歳。厳しい規律の中で軍国主義をたたき込まれた。
1945年2月、20歳を前に徴兵検査に合格し、軍属から軍人に。配属されたのはソ連との国境を守る部隊だった。

8月9日未明、ソ連軍は国境を越えて満州に侵攻した。
渡部さんらの部隊は国境付近の虎林(こりん)市の郊外で陣地を作って待ち構えたが、下った命令は「部隊の主力は後方へ退却。残る部隊で侵攻を食い止めよ」
渡部さんら約150人が陣地に残った。

だが、戦車を連ねるソ連軍に、渡部さんらの歩兵部隊が太刀打ちできるはずもなかった。
そこで上官が命じたのは、約10キロの爆薬が詰まった木箱を抱えて戦車に体当たりする「肉弾特攻」だった。
「これでお母さんともお別れだな。それでも戦車1台やっつけられたら軍人として本望だ」と思った。

平原の小高い丘から先陣の攻撃を見守っていると、「ボーン」という爆音とともに戦車の近くで黒煙が上がった。
「やったぞ」と思ったが、煙が消え、現れたのは何事もなかったかのように動き始めた戦車だった。
突撃した兵士の体は消えていた。後に続いた数人の兵士は体当たりできずに狙撃された。

渡部さんも爆薬を抱えて丘を駆け下り、木陰に伏せた。
「だが、それ以上は前に進めませんでした。少しでも動けば弾が飛んでくるんですから」
それからの数分間は記憶がない。徹夜が続いて疲れ切っており、伏せたまま眠りに落ちたのだと思う。
目が覚め、陣地へ戻った。責められると思ったが、意外にも「よく戻ってきた」と言われた。

数日後、戦争は終わった。
渡部さんらは捕虜となり、シベリアへ送られた。3年間の抑留生活。
十分な食料もないまま、農業や森林伐採の労働に駆り立てられた。帰国後は、シベリアで患った結核で6年間の入院生活を強いられた。
渡部さんは「死ぬか生きるかギリギリの線だった。僕は生きる側の方に針が振れただけだ」と言う。

近年、特攻をテーマにした映画や書籍が話題を呼ぶが、渡部さんはこう言う。
「戦車1台壊すためにキャタピラー(走行用ベルト)めがけて体ごと突っ込む。骨も残らないです。下っ端の兵はそういうふうに死んでいった。それが戦争です。僕たちは敗戦の上に立ち、平和をつくっていかなければならない」




◇6割「餓死」の学説も...無謀な作戦が惨劇招く

日本は15日、69回目の終戦記念日を迎えた。
日中戦争や太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属は、政府見解によると約230万人。
その内訳は不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。
兵站(へいたん)を軽視した無謀な作戦がこうした惨劇を招いたとして、昭和史の著作が多い作家の半藤一利氏(84)は「軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやった」と指弾している。

総務省、厚生労働省などによると、1937~45年の戦没者230万人を戦死、病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していない。
終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、敗戦で記録を残すのが難しかったことなどが影響している。

歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は旧厚生省援護局作成の地域別戦没者(1964年発表)を基礎データに独自の分析を試みた。
著書の「餓死した英霊たち」(青木書店)で、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと試算。
さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。

個別の戦闘ではある程度のデータが残っている。
「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編さん)によると、「ガダルカナル島の戦い」(1942年8月~43年2月)では、日本陸軍3万1000人のうち約2万人が戦没。
その約75%、約1万5000人が栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる死者だったという。

そうした日本軍兵士の生死を左右したのは「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の一節で知られる「戦陣訓」だった。
太平洋戦争開戦前の1941年1月に東条英機陸相(当時、後に首相)が全軍に示達し、降伏は不名誉なこととされた。

勝利か、しからずんば死か--。「皇軍」の兵士たちは文字通り、そうした状況に追い込まれた。
戦死を免れても、補給を断たれてしまっては餓死するしかない。
大本営参謀らのエリート軍人について、半藤氏は「緒戦の勝利におごり、自己の実力を省みず、攻勢の限界線をはるかに越えた」と戦略上の失敗を指摘したうえで、「人間をまるで、将棋の駒のように扱った」と批判している。
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| | 2014-08-16(Sat)10:22 [編集]